「高須賀 穣 ものがたり」日豪を結ぶコメの懸け橋
<留学・国会議員・結婚>
1865年(慶応5年)2月13日、高須賀伊三郎(穣)は、四国松山藩の料理長、高須賀賀平の一人息子として、呱々の声を上げた。明治維新の新風の中、伸び伸びと育ち、18歳で家督を譲り受けた。
1890年、学問への意欲をつのらせ、慶応大学予科で学んだ。2年後、経済学部へ進んだが、海外への関心抑えがたく渡米し、インディアナ州デ・パウ大学、ペンシルバニア州ウエストミンスター大学で学び、文学士の学位をとった。
1897年、ヨーロッパ経由で帰国。翌98年、第5回衆議院議員選挙に立候補し当選した。そして、国政の場に4年間、アメリカ仕込みのデモクラシーの息吹を吹き込んだ。
1898年には、東京家政大学(当時・渡辺裁縫学校)出の9つ若い前島イチコと結婚、2年後に長男(昭)を、その3年後に長女(愛子)をもうけた。
<移民・コメ作り開始>
1905年(明治38年)3月14日、高須賀穣は妻と二人の子供を連れ、ビクトリア州メルボルン港に着いた。ときに40歳。人生後半を新天地に賭ける益荒男の意気は静かに燃え盛っていた。
当時、オーストラリアには、真珠採取やサトウキビ工業に従事する日本人が3,500人ほどいた。「白豪移民制限法」という差別的な法律の下、高須賀は12ヶ月の滞在を許可された。メルボルンで日本産品の輸入業を営むかたわら、「ストット&ホア・ビジネスカレッジ」で日本語を教えた。
高須賀は、オーストラリアにコメがたくさん輸入されていることと、コメを作れる土地があることに目を留めた。また、生まれ故郷とアメリカのコメ作りをよく観察していたので、コメ作りの知識は十分持っていた。
高須賀は一計を案じた。ビクトリア州のトーマス・ベント首相と国土省の大臣に会い、次のような建議をした。
「コメ作りには特別な知識が必要です。日本では、代々の農家が生業としてやっています。コメ作りは大量の水を必要とし、病気も発生しますが、他のどの作物にも適さない湿地で作ることができます。」
これが利き、1906年7月、州政府はマレー川沿いの300エーカー(120ヘクタール)の土地をコメ作りのために提供することを閣議決定し、官報にこう告示した。
「土地は毎年、洪水に見舞われるが、エーカーあたり6ペンスの借地料で5年間占有できる。」
<種まき・洪水・ジャップ・バンク>
高須賀は直ちに申請書を提出し、ビクトリアとニューサウスウェールズ(NSW)の州境スワンヒルのチンチンダーへ家族ともども引っ越した。高須賀は300エーカーのうち200エーカーを割り当てられた。残りは2人のオーストラリア人に等分された。
1906年10月、高須賀は勇踏、日本から持っていったコメの種をまいた。オーストラリアのコメ産業の勃興に、瑞穂の国・日本のコメと稲作技術が導入されることになったのである。
最初の年はしかし、芽が羊に食われ失敗。翌年、日本から3種類のモミを輸入して再挑戦した。しかし、今度は水不足で失敗。1908年、日本から専門家を招き、15種類のモミを準備したが、築堤工事に追われ種まきの時期を失した。
高須賀は、牛馬一体となっての築堤工事に命を賭けて挑んだ。それがコメ作りの成否を分ける生命線であることが分かっていたからだ。1909年までにマレー川の急所にわずかに築堤したが、その年大洪水に見舞われ、種まきした40エーカーの水田ごと流された。
洪水は毎年のように襲い、高須賀は大海と化した水の中を2〜3ヶ月間、小船をこいで子供たちを学校に送り迎えしなければならなかった。1910年、次男マリオが生まれた。
マレー川との宿命の戦いは続く。そしてついに1918年、後年「ジャップ・バンク」(日本人堤)と呼ばれる堤防約3キロメートルを完成させた。高須賀の勝利は、それを引き継いだ州政府の堤防工事促進—治水の夢実現へとつながった。
<挑戦5年目で初収穫・オーストラリア米産業の勃興>
1911年、日本から輸入した25種類のモミをまき、「賀平」「日照り知らず」「新力」の3種を収穫した。挑戦5年目の初成功だった。
1913年には洪水を避けるために植えた他人の水田5エーカーで、エーカー当たり1トンの収穫を上げた。1921年にはさらに豊作となり、築堤の成功と合わせ、高須賀の名が知れ渡った。
一方、NSW州立ヤンコー農業試験場では1924年〜25年、アメリカから導入したカリフォルニア米の「カロ」(日本から渡ったジャポニカ種とアメリカのインディカ種の交配種)など3種のコメの商業生産に成功、オーストラリアのコメ作りの基盤が整っていった。
この間、高須賀は土地の永続借用権獲得に奔走し、何度も申請を却下されたが、1915年にこれを得、1922年には土地の自由保有権も得た。そして1934年には在留期間延長の申請書をもう書く必要がなくなった。
コメ栽培はこのあと、ヤンコー農業試験場のあるNSW州リバリナ地方へ移り、マラムビジー灌漑区、コーレアムバリー灌漑区、マレーバレー灌漑区の3地区に合計10,000キロメートルの灌漑用水路が完成するのに合わせ、一気に隆盛した。
今日、オーストリアのコメはジャポニカ種が8割を占め、世界一の単収を誇るが、その基盤が今世紀初頭の高須賀穣のチャレンジによってつくられたことを、リバリナのコメ生産者たちは誰一人忘れてはいない。
高須賀は、コメ栽培が軌道に乗ったのを見届けると、1927年ブドウ作り、1934年にトマト作りを始めた。そして69歳で引退、経営一切を2人の息子に任せた。
1939年、その年亡くなった継母の弔いと財産整理のため、高須賀は熱田丸で日本に帰った。1940年、高須賀は自分の生まれた松山の家で就寝中、心臓麻痺で急逝した。享年75歳であった。
妻イチコは、1956年、ビクトリア州ゴーニンで82歳の命を閉じた。今、次男マリオがアデレードに、また4人の孫、7人のひ孫たちがスワンヒルなどに住んでいる。
スワンヒル開拓者博物館には、高須賀が作ったコメ、イチコの着物や日記などが陳列され、一家の苦闘の歴史をしのばせている。
質の高い灌漑用水に加え、この地域の夏の暑い気候と重粘土質土壌は、稲作には理想的です。山地流域と灌漑地の間に規模の大きな工業開発はありません。
スノーイー・マウンテンからの雪解け水と雨が、大規模な灌漑施設へと流れ込みます。